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中央寺
歴史

長岡山中央寺は鎌倉時代のこの地を納めていた 戦国大名細川公の菩提寺であった中尾寺を元禄3年(1691年)に慧極禅師が再興して、山号を 長岡山中央寺に改め今日に至っています。 明治10年、世の中が混乱していて、毎夜強盗 に襲われ身の危険を感じて、集落のある現番地に 堂を移したと記されています。明治天皇が信太山大演習の視察に来られたとき 当寺に立ち寄られ、楠が植樹されています。 その楠は残念なが枯れてしまったので、同じ 場所に第12代喝宗和尚が晋山されたときに その話を聞いて植樹された物が現在も境内にそびえています。
泉州泉の国は徳川御三家である紀州(和歌山) 徳川から大坂堺を望み、徳川の要の位置でも あったと伝えられています。上の写真は 本山開山である石丈元高禅師です。幼い頃に喜多郡大洲村の臨済宗妙心寺派、曹渓院に 投じて出家されました。初めは受業師にと将来を期待されましたが、遊方を志し、留められるのを恐れて誰にも告げずに辞したそうです。遊方中、たまたま黄檗の門風興隆の事を聞いて、河内の大宝山法霊寺に登られ、住持の慧極禅師に礼して更衣改号されました。朝夕慧極禅師に親炙され修行に励まれましたが、やがて法霊寺を去って、泉南の古寺に住されました。時に和泉郡信太王子村の帰依者らによって、同郡中王子村山中の長岡山中央寺の古址に迎えられ、山水秀麗にして霊樹幽邃の勝をみて、天和3年(1683年・53歳)4月、これを重興され開基となられ本師慧極禅師を開山に請いせられました。その後、元禄4年(1691年)4月20日、本山に申請され末寺となりました。まもなく病気となられ、後住を法兄の喝宗元網に托され、同年7月29日示寂。世寿61歳。荼毘の後長岡山に塔しました。享保8年(1723年)33回忌の当り第三代実門浄瑞法姪が頂相を描き、法兄雪門道亨が賛及び行由を記されました。なお、明治16年6月10日追贈登記されました。
参 考/慧極道明禅師伝(黄檗文化人名辞典)
歴代住職